2011年6月

レバノン週報(2011年6月20日〜6月26日)

日曜日夕方の西ベイルート・ハムラー地区の裏通り。

6月13日にようやく樹立されたミーカーティー内閣であるが、現在は正式発足に必要な国会承認を得るべく、施政方針の作成に取り掛かっている。しかしながら、ミーカーティーが言うところの「国際公約」に該当する事柄に対して、新政権内における主要勢力である「3月8日連合」、とりわけシーア派勢力「ヒズブッラー」との見解が異なっていることから、施政方針の完成までには時間がかかる模様である。

ミーカーティーとヒズブッラー側との見解に隔たりのある事項の内、最も解決が難しいと見られているのが、ラフィーク・ハリーリー元首相爆殺事件を審理している「レバノン特別法廷」を巡る問題である。ミーカーティーはこれまで、レバノン特別法廷が国連安保理決議1757号を法的根拠にして設置されているため、同決議を遵守していく意向である、とのことを折に触れて表明してきた。

しかしながら、特別法廷がヒズブッラー・メンバーを訴追することが確実視されている中、同組織を率いるナスルッラー書記長は繰り返し、その正当性を疑う声明を発出してきており、また、本年1月に同法廷が容疑者の訴追手続きを執ったことを発表した際には、ベイルート内外で即座に示威行動を取らせた。ミーカーティーは従って、安保理決議遵守とヒズブッラーの意向との妥協点を見出さなければならない状況に立たされているが、「ゼロサムゲーム」の様相を呈していることから、果たしてそれが可能かどうか、疑問視されている。事実、「施政方針作成閣僚委員会」においては、ミーカーティーとフナイシュ行政改革担当国務相(ヒズブッラー出身)が、特別法廷に対する方針をめぐって論争を繰り広げているとのことであり、今後の先行きが注目される。

なお、レバノン特別法廷に関しては、6月21日付のレバノン英字紙「デイリー・スター」において、今月末までに正式起訴が執られる、との報道がなされた。また、26日付の同紙報道では、欧州諸国の在ベイルート大使館が、自国民を避難させる事態を想定した準備を進めている、とのことである。特別法廷、及びシリア情勢に関連してのリーク報道であったが、一時収まっていた同国からレバノンへ向けた避難民の流れが、再び目立つようになってきていると言われており、故に情勢の展開に注視していきたい。

※ 写真:2011年6月26日撮影
日曜日夕方の西ベイルート・ハムラー地区の裏通り。ナポレオンホテルの前には、ベイルート在住外国人や、欧米からの観光客が好んで利用するメイフラワーホテルが位置する。いつもは賑やかなこの通りも、週末の夕方は静寂に包まれる。

レバノン週報(2011年6月13日〜6月19日)

閑散とした週末のダウンタウン (2011年6月18日撮影)

本週報ではこれまで、レバノンの内閣形成について折に触れて進捗状況を報告してきたが、6月13日にようやくミーカーティー内閣が樹立された。1月25日に、ミーカーティー元首相・議員が首相に任命されてから、5ヶ月弱が経過する中での組閣実現であった。6月15日には初閣議を早速開き、その後は正式発足に必要な国会承認を得るために、施政方針の作成に取り掛かっている模様である。

ミーカーティー内閣に関しては、多くの国際報道で「(シーア派組織)『ヒズブッラー』支配の」といった枕詞が付けられているが、ミーカーティー本人はレバノンのみならず、アラブ世界で広く通信事業に携わっている国際的な大物ビジネスマンであり、ヒズブッラーとの関係はかなり薄いようである。

また、内閣の構成をみると、確かにヒズブッラーを中軸とする「3月8日連合」勢力出身、若しくは同連合と関係の深い閣僚が18人を占めるものの、残り12人の閣僚はミーカーティーやスライマーン大統領、ジュンブラート「進歩社会主義者党」党首の何れかと近しい関係にある。従って、「三分の一を超える閣僚数が辞任した場合、当該内閣は崩壊する」とのレバノン憲法第69条の規定から、仮に3月8日連合側が「強引な」行動を取った場合には、大統領や首相側はジュンブラートと協働し、閣僚の引き上げを示唆する手法により、同連合側の動きにブレーキをかけることが、制度上は出来ることになっている。

ただ、そうは言っても、ミーカーティー内閣の「重要ポスト」(内務地方行政相、国防相、財務相、外務在外居住者相)に関しては、シャルビル内務地方行政相が「大統領枠」、サファディー財務相が「首相枠」である一方、グスン国防相やマンスール外務相はそれぞれ、ヒズブッラーとの関係が深いキリスト教組織「マラダ潮流」、並びにシーア派組織「ヒズブッラー」出身である。故に、ヒズブッラー出身閣僚そのものは、共に留任のハサン農業相、及びフナイシュ行政改革担当国務相の2名が含まれているに過ぎないものの、グスンやマンスールがそれぞれ外務、並びに国防を司るようになったことは、レバノンの国防外交政策に対するヒズブッラーの影響力が今後、高まることが予想されよう。

こうしたことから、欧米諸国は軒並み、ミーカーティー内閣の樹立をあまり歓迎しておらず、新内閣の今後の言動に注視していくといった、「模様眺め」の姿勢である。しかしながら、国内のみならず、アラブ世界全般における政情不安の煽りを受け、最近一層停滞気味のレバノン経済を立て直すには、欧米からの投資も必要不可欠である。ラフィーク・ハリーリー元首相爆殺事件を審理している「レバノン特別法廷」が近いうちに、ヒズブッラー・メンバーを訴追すると言われている中、国内情勢の先行きを心配する声も出ているが、ミーカーティーがどのような舵取りをしていくのか、見守っていきたい。

※ 写真:2011年6月18日撮影
閑散とした週末のダウンタウン。JaCMESオフィスから西側を望む。道路奥上部の建物がオスマン時代の兵舎を利用した首相府。日本大使館はそのすぐ向こう隣にある。手前右下にはローマ時代の石柱が並ぶ。

レバノン週報(2011年6月6日〜6月12日)

「3月8日連合」勢力を軸とする新内閣の樹立は今週も延期されたが、アウン「自由国民潮流」党首とミーカーティー次期首相、更にはスライマーン大統領との閣僚ポストを巡る対立が、早期樹立を妨げている最大要因とされている。こうした中で、シリアのB・アサド大統領は6月9日、ダマスカスでジュンブラート「進歩社会主義者党」党首と会談した際、内閣の早期樹立を改めて訴えた。新内閣が3月8日連合を軸として形成されることから、同勢力の「後ろ盾」と言えるシリアの後押しは重要であるが、ミーカーティー筋は12日夜になって、今しばらくの時間が必要との見方を明らかにした。

このように内閣樹立が遅れていることは、レバノン国内の政治対立に加え、シリアのアサド政権が国内の反体制運動に対処せざるを得ないことも、その背景に存在している。そのシリア情勢に関して言えば、今週は同国からトルコ南東部への大規模な避難民の動きが大々的に報じられたが、レバノンにおいては、既にシリアから避難してきた人々に対する人道面での支援が問題になっている。また、ベイルート・ダマスカス街道においては、交通量が大幅に減少したと言われており、ベイルートのシャルル・ヒルウ・ターミナルでは、ダマスカス行きのセルビス(乗合タクシー)運転手が、乗客がいないことからバックギャモンに興じているとの報道がなされている。

レバノンにおいては、「反シリア」の「3月14日連合」勢力と「親シリア」の3月8日連合が、ヒズブッラーの武装問題やラフィーク・ハリーリー元首相爆殺事件国連調査といった、同国が抱えている「センシティブな」イシューを巡って対立していることから、シリア情勢の余波が懸念されている。しかしながら、現時点では小規模な「親アサド」と「反アサド」のデモが開催されてきているものの、依然として「平穏な」状況が続いており、レバノン第二の都市トリポリにおいては、6月10日の金曜昼の集団礼拝後、レバノン人とシリア人数百人が「反アサド」のデモを行ったが、大きな混乱を招くことなく解散した。

レバノン週報(2011年5月30日〜6月5日)

「3月8日連合」勢力を軸とする新内閣の樹立が延期され続けている中、ミーカーティー次期首相は6月3日、「新内閣は数日以内に形成可能」との見通しを発表した。その後、同連合の主要勢力である「ヒズブッラー」は5日に、「内閣樹立に伴う主要な障害が取り除かれた」、との見解を明らかにした。しかしながら、3月8日連合に属すると共に、議会第二党でもあるアウン「自由国民潮流」党首による要求が、ミーカーティー、更にはスライマーン大統領の見解と相いれない状況が続いており、またシリアの国内情勢から、アサド政権による仲介も望めないことから、果たして来週に内閣樹立が本当に実現されるのか、半信半疑な状況である。

今週はところで、ラーイー総大司教が6月2日に、4月19日に引き続きブキルキーにて、マロン派の政治指導者を集めた2回目の会合を主催した。スンナ派の多くが「3月14日連合」勢力を支持し、シーア派の圧倒的多数が3月8日連合を支持する中、マロン派の主要政治勢力は二分されてしまっている。こうした中で、3月14日連合に属するジュマイイル「カターイブ党」党首やジャアジャア「レバノン軍団」党首、3月8日連合に属するフランジーヤ「マラダ潮流」党首とアウンが一堂に会する集まりが再び開かれたことは、実質的なことが話し合われなかったとはいえ、「宗派政治」が展開されているレバノンにおいて、マロン派内部の政治的分裂が同派の立場を弱体化させかねないとする危機感が、立場は違えども同派の指導者間で共有されるようになった証と見なせよう。

なお、6月5日は第三次中東戦争の開戦記念日であり、5月15日の第一次中東戦争開戦日に引き続き、レバノン南部の対イスラエル国境付近において、パレスチナ人による抗議活動が計画されていた。しかしながら、5月15日にはイスラエル側からの発砲により、パレスチナ人11人が死亡し、112人が負傷したことから、レバノン政府はこうした事態の再発を恐れ、抗議活動に対する許可を与えず、また国境地帯を「軍事閉鎖地帯」とする決定を週半ばに下した。この結果、シリア領ゴラン高原における展開とは異なり(同地ではパレスチナ人22人が死亡)、レバノン・イスラエル国境は「平穏な」状況であった。ヒズブッラーの運営するテレビ局「アル・マナール」はゴラン高原の状況を生中継していたが、イスラエル軍兵士が非武装のパレスチナ民間人を直接標的として発砲する有り様であった。来週はイスラエル軍のベイルート侵攻が開始された(1982年6月6月)週であることから、ヒズブッラーやパレスチナ人の動向が気にかかるところである。

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